忘れてもいいかい なんとなく呼びだした後に急用が入って、仕方なしに数十分程待たせていたら牙刀は座ったまま寝ていた。 腕は組まれていて眉間には相変わらずの皺があるから、最初見た時は悪態でも考えているのかと思った。 「……疲れてるのか?」 脇に立っていたビリーに聞けば、一瞬ばかり目を見開いた後に吹き出された。 いやいや昨日試合ですよ俺ら、とビリーは苦笑して自分の顔を指差す。適当に貼られたガーゼの下から赤黒い擦り傷が覗く。顔を下に向ければ、牙刀の顔や袖口から覗く手の甲にも似たような傷が見えた。 それじゃお先に、と軽く頭を下げてビリーが出て行った。 ばたん、とドアが閉まる音に牙刀は薄く目を開けたが、すぐに閉じてしまった。目の焦点があっていなかった。子供みたいだと思った。かわいげが存在すらしない事を除けば。 額に手を伸ばしてみても、身じろぎひとつせずに牙刀は寝たままだった。牙刀の怪我と疲労の原因を思い出してから、かつて提示していた報酬の内容を思い出して、ああ、と声がこぼれる。 忘れてもいいかい 当たり前かもしれないが、自分の子供の頃については驚くほどギースの記憶は薄い。 父親については名前だとか立場だとか、後から知った知識程度しかない。母親は死んだ時だけかろうじて覚えている。ひどく悲しんだり怒ったりした記憶はうっすらあるのだけれど、その時の気分まではもう思い出せない。多分年相応らしく理不尽さに泣きもしたのだろうけれども、誰よりもギース自身が覚えていないから実感が無い。 忘れてもいいかい だからその内、牙刀も忘れるのだろうと思う。捨てるのばかりが得意で、抱えるのが不得手な男の事だ。身内すら忘れた振りで通すなら、ギースの事など忘れるのは簡単だ。 右手で押さえている頭蓋骨の更に奥について、単純にそう思う。いっそ全部忘れてしまえば、追いかける理由も戦う理由も無くなるのに、とも。 自分にとって都合のいい記憶だけ無意識に選んで、残りはどこかに置き去りにしていく。誰に習った訳でもないのに、辻褄の合わせ方ばかり上手くなる。 |