ぎし、と小さな木の椅子は軋んで音を立てた。壊さないよう、用心しいしい樊瑞は腰掛けなおした。これも木で出来た机についた肘に、少しずつ体重をかけていく。この家の何もかもが壊れやすいように思える。目の前に座る男も例外ではない。
「全く変わりませんねェ、あなたは」
あの頃からずっと。
吐く息に乗せるように孔明は言葉を呟いて、口元を僅かに緩ませる。その一連の動作を見飽きる程に目にしていた頃を樊瑞は思い出そうとするが、どれもこれも霞がかかったようにぼやけている。
「……お主もだ」
樊瑞の言葉を否定するでも肯定するでもなく、孔明はふふ、と笑った。
「そうでもありませんよ」
茶を一口啜って孔明は続けた。
「もう、長くはありませんので」
「何をッ……」
思わず立ち上がりかけて、樊瑞は急に力が抜けたように座りなおした。この男が言うのならきっとそうなのだろう、と諦めにも似た確信が内から持ち上がってくる。こうやって自分と話している時だけ、男は策士孔明になっている。
「……葬式には出んぞ」
「ひどい事をおっしゃる、私と貴方の仲だというのに」
「泣いてしまうかも知れん、から行かん」
「どなたが」
「儂に決まっておろう」
一気に表情をなくした後、孔明の黒目がぎぅと収縮した。一呼吸ほど間をおいてから、茶を一口啜って孔明は言った。
「泣いて、いただけませんか」
「断る」
「お嫌ですかな」
「当たり前だ」
「頼みですよ」
最期の、と付け足すように言って孔明は乾ききった笑みを浮かべる。
「嫌ならば私の墓の前で泣いてください。怒鳴ってもいい、詰ってもいい。何十年も前の事を持ち出してもいいです。ですから、どうか何かを」
次はないので。
薄っすら笑った男の顔は毒気がすっかり抜けた見慣れぬもので、一人置き去りにされたような気分に樊瑞はなる。色んなものを置いてきたのは自分の方でこれからも置いていく筈なのに、こんなにも自分の中をすうすうと何かが通り抜ける気がするのはなぜだと考え、樊瑞はただ表情を曇らせるしかない。
「出来る事なら、貴方より後に死にたかったです」
樊瑞に向けるでもなく、顔を横に向けて静かに孔明は呟く。
「詮無い事を言うな」
首をゆっくり横に振り、至極残念そうに孔明は目を伏せた。
「結局どこまで行っても、私と貴方は離れている」
机一つ分の距離が、樊瑞と孔明の限界だった。あの要塞でいつだって机の向こうで、策士は得体の知れない笑みか腹の内が見えない苦みばしった表情を浮かべていた。
樊瑞殿、と細い声がした。背筋を伸ばし、孔明が樊瑞を見つめる。
「私は、貴方が、本当に、そう本当に、」
「孔明ッ……」
さえぎるように男の名を叫んで、樊瑞は首を横に振った。その言葉の先にあるものを今聞いたところで、何にもなりはしない。なら、この先は地獄へ持って行きましょうと孔明は薄く笑って、茶を一口飲んだ。樊瑞はただただ苦い顔をしているしかない。
例えばここで手を取って蓬莱へ連れ去ったとして、例えばこの男が永遠に生きられるまじないをかけたとしても、己の意に沿わぬ事を許容する程孔明が甘い男な訳が無い。
樊瑞は急に立ち上がって、孔明の側に寄った。予想外だったのか、孔明は樊瑞を見上げて表情を固くする。机一つ越えた先に居た男の体は、思ったよりも細くて頼りなかった。
「……もう少し早く、こうしていればよかったのかもな」
「それこそ、今となっては詮無い事ですよ、樊瑞殿」
男は目を細めて、僅かに残していた笑みを消した。男の口が小さく息を吸い込むのを見て、樊瑞は目を閉じる。男の言葉は鈍い刃物のようにゆっくりと身を刻む心地がする。
「貴方は、人里になど下りてはいけなかった。遠き山の頂で、朽ち果てるまでもしくは永劫に仙人でいなければならなかったのですよ」
目の前で喋っているこの男は本当に人間なのかと樊瑞は疑いたくなる。こんな枯れ木のような生き物一つ自分は壊せない。
「あの頃と、口が達者なのは変わらんな」
「何、年寄りの妄言と思っていただいて結構」
そう言って孔明は力を使い切ったように息を吐き、小さくなったように見えた。
あの時殺しておけばよかった、と静かに樊瑞は呟いた。
「手を下さずとも、直にそうなりますよ」
「違う、そうではない。それでは、いかん」
まだ魔王と策士であった頃に、この手で殺めておくべきだったのだ。置いていかれる前に、離れるべきだった。
そう言えば、男は口の形だけで笑った。